忍者ブログ

科学の力ってすげー?

MENU

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

おなじ人だと思うこと(あまちゃんから考える)

NHK朝ドラのあまちゃん。
すっかりハマっていて、その面白さを語り出したら止まらないんだが、
ここではポイントを絞って、
「人だと思えないものを人だと思うこと」
という点について、
直接あまちゃんの魅力というよりは、
ヒトの心理という観点で、好き勝手に書こうと思う。


ここで取り上げる「人でないもの」というのは
「人でなし」という意味では当然なくて(笑)、
「神のような超越存在」というニュアンスである。


それはすなわち、あまちゃんにおける大女優「鈴鹿ひろ美」のことである。


鈴鹿さんは、1980年代から今まで根強い人気を誇る女優・歌手という
設定であり、
とりわけ映画「潮騒のメモリー」で縁がある北三陸の人々からすると、
雲の上の存在なのである。


現実に、芸能人、歌手というのは基本的にはそういう存在だと、市井の人々が
認識しているケースが多いと思う。
テレビやコンサートで姿を見ることがあっても、プライベートに話すことは
ほとんどありえないわけで、したがって
「すごい面」を見ていても「人間らしい面」を見ることはできない。
仮にラジオやトークライブなどで「ホンネ」と銘打たれ、どれだけ本音を
語ってくれても、
よっぽど信じやすい人以外には、それは「ホンネトーク」としてカッコ書きで
認識されるものである。それが当然だ。


さて、そんな雲の上の鈴鹿さんが、北三陸でチャリティ・リサイタルを
実施することになるわけだが、
もちろんその時点ではまだまだ、「人ではない」。


だが、事態が展開するのは、鈴鹿さんが事務所に黙って、勝手に
北三陸に2週間ほど前乗りしてしまうところからである。
結果的に、北三陸の面々と、同じ卓を囲み、同じ酒を飲み、同じ笑いを
共有することになって、
それがすなわち、彼らの鈴鹿さんへの認識を「芸能人」から「知人」に
変化させていくわけである。
(無礼者キャラの主人公アキでさえ、最初に鈴鹿さんに会った時は恐縮していた
 のだから、それこそ北三陸の人々の当初の感情としては、ほんとうに
 人ではない、くらいの捉え方だったはずだ)


んで、極めつけとしては、
チャリティ・リサイタルの途中、
みすずとメガネ会計ババァの会話の中で「あいつ」という同郷人だけを指す
代名詞で鈴鹿さんのことを語ったこと。
このときには既に、鈴鹿さんは、北三陸の人々からしても「人」と捉えて
いたことになる
(余談だが、このへんの脚本家クドカンの筋書きがカンペキすぎるよね…)。


とかく、芸能人や有名歌手となると、市井の人々は、崇拝対象のように感じる
心理を持ちやすいわけだが、それは
必ずしも「憧れ」のように前向きな感情ということにはならない。
「同じ人間としての接し方」をできないということは言い換えると、
人間だと思わずになんでもしかねない、ということでもある。


芸能人がときどき、街でいきなり見ず知らずの人から写真を撮られたり
(しかも、ひとことの声掛けや感謝の言葉もなく!)することがあると思うのだが、
それも、一般人が芸能人を「人だと思っていない」からできる失礼な行為な
わけである。
時折、それに怒りをぶちまける芸能人もいるが、
多くの芸能人は有名税だと思って(印象や評判の管理もあるし…)黙ってにこやかに
しているのだろう。
その耐え忍び方は、個人的にはすごいと思う。


この「人だと思わない」という心理は実に恐ろしいもので、
たとえば戦争や民族紛争における、
残虐すぎてとても信じられないような行動などに関しても、
「人だと思わない」からできる、という話がある。


逆に言えば、指揮官は、兵に残虐な行為を実施させたいならば、
まず攻撃対象者を「人だと思わない」ように教育せよ、というのは
真理であろう。


すんごい方向に話が行ったけど(笑)
話をあまちゃんを戻す。


コミュニティで1人の人間として愛され、
さまざまな弾みもあって、結果的に東京で芸能人としてポジションを築いた
主人公アキという存在は、
北三陸の人々からすると、鈴鹿さんとはまったく逆で、
最初から最後まで「仲間」なのである。


このコミュニティに包まれる感覚が、
主人公アキが辛いことがあっても「地元に帰りたい」と思う
(=地元に帰れば、人間性を回復できるという適切な予測をする)
源泉になっているのだ。
ま、結果的に、ほんとに地元に帰っちゃうんだけど(笑)。


//////////////////////////


あまちゃんというドラマは、色々な切り口から語れることが
たくさんあるのだけれど、
こと「芸能人が芸能人を演じる」という点でもユニークである。


つまり、作中で、芸能人が演じる芸能人と、芸能人が演じる一般人が、
現実で芸能人と一般人が出会った際に起こると思われる心理を
表現することで、
「さて芸能人とはなんなのか」「アイドルとふつうの人の違いとは何か」
を視聴者に考えさせるわけである。


もっとも、実はもしかしたら、それはドラマを演じている、本物の芸能人たちも
そう思ったかもしれない。


昨今、ドラマの中のGMTだけではなくて、実際に現実世界でも
地元密着をうたうアイドルはたくさん出てきているわけだけれど、
それをマーケティング、もっと言ってしまうと「商法」という観点だけで
捉えるのはちょっと違う気がする。


ほんとうに、地元密着を目標に掲げ、その達成に向かうアイドルのほうが、
辛いときに帰れる場所を持っているという意味で、サバイバル度が高いのでは
ないだろうか?



というのも、
今日、テクノロジーの発達と、社会構造の変化によって、
我々人間は、祖先の時代からは想像もつかないほどにたくさんの人と
接点を持つことが可能になったという背景があって。


それは、たとえばテレビや報道を通じて、一方的に情報を受け取るだけの
存在(たとえば芸能人)についても、ある意味で接点を持っている、という
意味である。


だがしかし、結局のところ、
鈴鹿さんと北三陸の人々が起こしたような、
肌身の近さでの双方向のコミュニケーションなしでは
同じ人間としての信頼や共感を築くことはできず、
「人だと思わない」状態での、存在認識を脱することはできない。


そんなメディアや多様なツールによっていくらでも遠距離の情報が流れてくる
狂気的な状況のなかで、アイドル自身に、正気と人間性を保つために、
それこそダーウィン的な「自然選択」が起こっているのではないかと思えるのだ。


ま、とはいえ、地元愛をうたうあまちゃんで、
結果的に日本中に大ブレークしてしまった能年玲奈のように、
マスに遡及するスーパースターという存在がなくなったわけではない。


でも、そうであっても、
そういうこととは関係なく、
我々一般人としては、なるべく芸能人を「人だと思わない」という態度は
とってはいけないと思うんですよね。


いや結局、世界中で起きている諸問題にしても、「人だと思わない」の構造が
根源にはあって、
でもそれは人間が生物として自己や自己の血縁者の保存を優先する
ように進化してきた以上は根本的には仕方ないし、僕もそうなんだけど、
だけどまぁ意識できる範囲では、そういうことはなるべくマインドセットを
ちゃんと持ちたいなと。


そんなことを考えた、あまちゃん最終回まであと3日という朝。
PR

Comment

お名前
タイトル
E-MAIL
URL
コメント
パスワード

× CLOSE

プロフィール

HN:
Masaki
性別:
非公開

P R

× CLOSE

Copyright © 科学の力ってすげー? : All rights reserved

TemplateDesign by KARMA7

忍者ブログ [PR]