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科学の力ってすげー?

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【本】ガンダムが教えてくれたこと 一年戦争に学ぶ“勝ち残る組織”のつくり方



ガンダム世代のコンサルタントによる
「ファーストガンダム」からビジネスの学びを
引き出してまとめたライトなビジネス書。

アニメのシーンを満載した表紙からすると、
適当な話が多いのかな、など思ってしまうのだが(すいません)
中身は皮相的な話に留まらず、
刺激的で面白い切り口が随所にちりばめられている。

一番なるほどと思ったのは4章(Side 4)の
「赤い彗星のジレンマ」の話。
なぜジオン軍で傑出した戦功を挙げていたシャアが、
ホワイトベースとガンダム相手には失敗を繰り返し、
最愛の女性まで失うような事態を招いていったのかを、
「過去の成功体験への固執と現状への適応失敗」という視座で切っていく。

シャアの場合、アムロのライバルという「兵士」(=プレーヤー)としても、
ブライトとの対比という「指揮官」(=マネジャー)としても、
どっちの面でも、それぞれのホワイトベース隊に劣っていたという
遠慮ない書きぶりが面白い(笑)。
逆にいうと、プレイヤーとマネジャーをしっかり分業し、感情的反目を
乗り越えながら、最終目的(=ビジネスの目的)まで進めたから
ホワイトベース隊は「生き延びること」ができたのかもな、と思う。

シャアは「学習」ができなかったことが敗因であると著者は言う。
というのも、p.131で、人は何事においても「学習期間」と、その実りを得る「実践期間」が
ある、と述べ、困難に直面したときには「実践期間が終わり、学習期間が来た」と
捉えることが重要ではないか、とまとめている。
これは、シンプルで説得力ある構造説明だ。

もちろん、学習と実践が同時に起こるようなことだって多いから、すべて
このように、割り切れるものではないけれど、
しかし実践面で「通じない」ことがあったときには、なぜ通じないかを検討することが
必要だというのは、ビジネスに限らず、スポーツでもほかの競争でも同じこと。
その結果、現状のアプローチでも量的な変更で対処できるレベルの問題なのか、
学びを得て再構築しないと通じないレベルの問題なのかを、適切に見抜くことが重要だ。

シャアは、ホワイトベースとガンダム、アムロとブライトという脅威に自分のやり方が
通じなかったときに、敗因分析を正しくできなかったこと、学びに繋げられなかったのだ。

ただ、本書が面白いのは、最後p.210のおわりに、の中で
「1年戦争で失敗ばかりのシャアは、Zガンダムのグリプス戦役では有能な
 プレイングマネジャーになり、1年戦争で活躍したアムロは過去に捕われ飛べなくなっていた」
ことを取り上げ、
人の適応する、学ぶ能力は、環境や考え方で柔軟に変わりうるものだと示していることだ。

昨今、企業の寿命、コア事業の寿命はどんどん短くなっているように感じられるが、
少なくとも事業や企業はなくなっても、人は社会の中で生きていかないといけない。
いかに学べるか、変われるか、が生き方を分けるポイントに思えた。


ガンダムが教えてくれたこと 一年戦争に学ぶ“勝ち残る組織”のつくり方 [単行本(ソフトカバー)]
鈴木 博毅 (著)
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【本】ホワイトスペース戦略



ビジネスモデルということばは
今日、私も含めて、経営戦略に少しでも関心のあるひとならば
一度はなにがしかのかたちで口にしたことはあるのではないかと
思うけれど、さりとて、
実際にそれを定義できますかと言われると
私はまったく自信はない。
「ビジネスのモデルですかね」
などと何にもならないコメントを言いそうだ(笑)。


本書では、このビジネスモデルの定義から始まり、
企業がホワイトスペース、すなわちこれまで得意にしているコアスペースに
留まらずに新しい領域に進出して、成功を収めるために
何が必要なのかを
モデル、事例、ユニークな比喩を用いてわかりやすく説いている。


まずビジネスモデルの定義に関しては、
それは関連し合う4つの要素で構成されているとする。
「顧客価値提案」「利益方程式」「主要業務プロセス&主要経営資源」である。


そして、新しい顧客価値提案を実現する際に、ほかの3つの要素に多いに革新性が
求められるときというのが、それは企業にとってのホワイトスペースへの進出であり、
新しいビジネスモデル構築が求められるということだ。
これをビジネスモデル・イノベーションと定義づけるということである。
非常に筋が通っていて、納得できる。


そして、その過程は「再現性がある」と言い切るのが、本書の最大の力点ではないだろうか。
天才経営者による模倣不能な神業ではなくて、
ステップを適切に重ねることができれば、それは再現しうるのだ、と。

そのステップは、1に顧客のジョブ(用事)明確に理解し、その満足方法を考える。
2に、解決しながら利益をあげる方法を考え、自社の既存ビジネスモデルで充分かを諮る。
3に、顧客価値提案と利益方程式の実現のために、主要経営資源と業務プロセスを
いかに準備するかを考え、何をするかをジャッジする、ということになる。
p.229に出てくる「犬」を開発する企業が「猫」という事業領域に気がついたときに
何がおこるか...というたとえばなしが面白い。
本書で述べているビジネスモデル・イノベーションを理解するうえで実に分かりやすい。


さて、本書を読み終わって私が思ったこと。
ビジネスモデル・イノベーションはどちらかというと
大企業の戦略レベルに向く考え方だけれど、
ベンチャー企業や、あるいは公共セクターでも充分に参考になる。


ベンチャー企業の成長を運ゲーではなくて、再現性ある、科学的なプロセスに分解した
「リーン・スタートアップ」と相補的な印象を持った。
いずれにせよ共通するのは、顧客が既存のものではたりない価値を感じるのは何かを
掘り下げて、そこから既存の自分たちのやり方で対処できるかを検討するというところだ。
リーンスタートアップ式にいけば、そこからMVP(実用最小限の製品)を出して、
学びを得ることに集中するわけだし、
ホワイトスペース式にいっても、同じように仮説検証のために安価で高速なテストを実施して
ビジネスプランを修正していくことが肝要になる。


ただし、大企業の場合は、既存事業部門や財務部門からの新規事業部門への抵抗が
すさまじくなるため、
経営者の役割としては、開発と市場投入のドライブそのものというより、
その部門の人々や予算を確保し、守り抜くというところに力点がおかれるであろう。


まー、ただ、言うはやすく、行うは難し...
新規事業で成功するまでやりぬく情熱の持久力こそが、最後には勝敗を分けるものかもな、とも思う。


ともあれ、読んで非常に学びが多かった。




ホワイトスペース戦略 ビジネスモデルの<空白>をねらえ [単行本]
マーク・ジョンソン (著), Mark W. Johnson (著), 池村千秋 (翻訳)
http://www.amazon.co.jp/dp/4484111047

克服の学習を

2013年。

なんかいろいろなことがあったような気がするし
別に何もない年なんか無いのだといえばそのとおりかもしれないが、
ともあれ大晦日に感じることを文章にしておく。

僕自身、転職をしてみたこと自体は何も後悔はない。
仮に前の会社に居続けたらどういう人生になるかと考えると。

仕事としては、おそらく言われたことをやり続け、
管理系社員として、たとえるならば内海(うちうみ)のような
荒波の少ないサラリーマン生活を送っただろう。

プライベートとしては、さして縁の広がることもなく、
会社の人間関係が大半で、たまに東京に帰ると家族や友人に会って、
再会を懐かしむ、というような日々の続いたことだろう。

そのこと自体は全然良いも悪いもなく、ただそういう人生だという
だけなのだろうと思うけれど、
だけどまあ、そうだとするならば、それがなんなのかと思うと
言葉にならない「封じ込めている」ような感覚があった。

別に僕には特別な技術系能力もないし、そもそも情熱を傾ける道が
見えていない。
飽きっぽさの塊で、何一つ成し遂げたことはない。

そんな人間にとって、荒波の少ない保護された会社生活なんて
じつに満足すべきものじゃないか、と言われると
返す言葉もないのだが。

ただ最終的には、その前の会社の社長の考え方こそが、
僕を後押ししてくれたような気がする。
「楽なところに人間は留まりたがるけれど、そこを出てこそ成長の機会がある」
という。

それを胸に刻んで、地で行ったら、その会社を辞めることに行き着いた(笑)。


で、それで入った今の会社だが、まさか入って1ヶ月で配置転換という
ウルトラDの大技を目の当たりにしたのはもちろん想定外。
小さい会社って、本当に太平洋に浮かぶ小舟のようなかんじで
荒波だらけのなかを脆弱な船体で進んでいるのだなと実感した。
ものすごくポジティブに考えると、その実感を得ただけでも
学びなのかもしれないのだが。

そして、営業をやることになって
正直なところ、毎日壁に当たって跳ね返されるという
しんどさを味わっている。

僕の得意分野なんて大してないけれど、苦手分野に関しては
明らかに存在することがよくわかった。

ただし、自分なりに心理学知見を踏まえて、
なんとか筋道を立てて分析をしてみたところを書く
(もちろん自分による自分の心情分析なんてかなり当てにならない、
 ことこそ重要な心理学知見だという構造矛盾はあるんだが・笑)。

要するに、営業のキモは「交渉」にある。

目的としては「物を売る」ではロングタームでうまくいかないらしい
ということは、様々な本にも書かれているし納得できることであり、
では目的は、というと「顧客課題の表出と解の提案」というような
かっこいい答えが、かっこいい上におそらく真理なのだ、
ということは僕は頭では理解している。

が、それを現実にするための方法が「交渉」であり、
それが僕はまったくできないということが判明したのだった…。
そりゃ、辛い。

交渉とは、どういうカードが切れるかを把握したうえで、
現実の相手とのやりとりを通じて望ましい解に到達するという
まさに人間の社会的能力バトルみたいなものだと僕は思う。

ビジネスパーソンの商談のような交渉というのは、
はっきりいえば自分の感情はどうでもいい、というよりも
そこにこだわっていては望ましい解には行けない。

裏表がないことは、それが求められる関係では望ましいことだが
ビジネス交渉の場では、それは無力どころか害にすらなりえる。

ビジネス交渉をするビジネスパーソンは、
解の実現のために、利害判断や交渉戦術の選択に的確さと俊敏さが
発揮できることが、高く評価されるのだ。
(そして、その能力が高いタイプのプロフェッショナルは引く手あまただろう)

…で、僕は、この能力がまるでないのだった。

この能力は、生得的なものか、後天的なものかでいうと、
まったく根拠に乏しい推測だが、どちらもかなり重要になってくる
ものではないかと感じる。
先天的になにがしか、そういった立場上の便益実現に関わる能力の
高さがあって、そういう人が、実際の社会関係のなかで
(仕事もプライベートもふくめて)経験を積むことで、
さらに洗練されて能力が高まっていくのではないか。

僕は多分、先天的に乏しいうえに、それを鍛えてくる機会も
まるでなかったので、
見事に交渉力の低い、いい大人になってしまったような気がする。

もちろん、これは学習のサイクルを通じて、
すなわち知識と経験と反省のサイクルを前向きに取り組めれば
伸びるものだとは思うから、
別に今から伸ばすことが無理だと思っているわけではまったくないのだが。

しかし残りの人生を何か「夢中になれること」を見つけて
取り組みたいのであれば、
その不得意分野でメシを食うという発想は、
時間と労力のわりに成果が遠く充実感が得づらい道なのじゃないかと
想像しちゃう自分もいる。

こういうとき、頭でっかちは面倒なんだよな(苦笑)。
営業マンに体育会系、みたいな議論が根強いのは、
結局頭でっかちで止まっていても何にもならないから、
それよりは動き出すほうがよほどマシという感触を持つ
ビジネスパーソンがけっこういるのかもなと思う。
それもまあ、僕みたいなのがいたら、そうなるかもな〜。

ということで、
とりあえずその不得意分野の壁に跳ね返されて、
戦力外通告予告みたいなプレッシャーも含めて
心がくたくたになりかけているところではあったのだけれど、
しかし考えてみれば、
これも経験したことで初めて分かることだ。

知識先行型が、行動の要求される現実に直面すると、
「知っていても役に立たない」
無力感、不安感に打ちのめされがちなのだが、
そこで「学習の真っ最中だ」という認識を強く持って
対処していくことで、知識を現実に応用するための
脳内のシナプスの変化が起きていくのではないかと想像する。

ということで、僕はきっとそういうフェーズにあるのだと
結局は楽観的視座から見なすことで、なんとかなると
思っている(笑)。

2014年は、
上述したような「克服の過程としての学習」を
成しえたい。

そして、方法はわからないのだけれど、
学びを実現するプロセスで支障を抱えて憂鬱な人に何か
支援するようなことができればとも思う。



克服という意味では、「愛」も、
実現するべく何かしたほうがいいのだろうなと思いつつ、
不得意すぎて入り口が分からない罠(汗)。

来年になったら師匠探そうかな~…。


以上、紅白を見ながら、整理というより書き散らかし。

おなじ人だと思うこと(あまちゃんから考える)

NHK朝ドラのあまちゃん。
すっかりハマっていて、その面白さを語り出したら止まらないんだが、
ここではポイントを絞って、
「人だと思えないものを人だと思うこと」
という点について、
直接あまちゃんの魅力というよりは、
ヒトの心理という観点で、好き勝手に書こうと思う。


ここで取り上げる「人でないもの」というのは
「人でなし」という意味では当然なくて(笑)、
「神のような超越存在」というニュアンスである。


それはすなわち、あまちゃんにおける大女優「鈴鹿ひろ美」のことである。


鈴鹿さんは、1980年代から今まで根強い人気を誇る女優・歌手という
設定であり、
とりわけ映画「潮騒のメモリー」で縁がある北三陸の人々からすると、
雲の上の存在なのである。


現実に、芸能人、歌手というのは基本的にはそういう存在だと、市井の人々が
認識しているケースが多いと思う。
テレビやコンサートで姿を見ることがあっても、プライベートに話すことは
ほとんどありえないわけで、したがって
「すごい面」を見ていても「人間らしい面」を見ることはできない。
仮にラジオやトークライブなどで「ホンネ」と銘打たれ、どれだけ本音を
語ってくれても、
よっぽど信じやすい人以外には、それは「ホンネトーク」としてカッコ書きで
認識されるものである。それが当然だ。


さて、そんな雲の上の鈴鹿さんが、北三陸でチャリティ・リサイタルを
実施することになるわけだが、
もちろんその時点ではまだまだ、「人ではない」。


だが、事態が展開するのは、鈴鹿さんが事務所に黙って、勝手に
北三陸に2週間ほど前乗りしてしまうところからである。
結果的に、北三陸の面々と、同じ卓を囲み、同じ酒を飲み、同じ笑いを
共有することになって、
それがすなわち、彼らの鈴鹿さんへの認識を「芸能人」から「知人」に
変化させていくわけである。
(無礼者キャラの主人公アキでさえ、最初に鈴鹿さんに会った時は恐縮していた
 のだから、それこそ北三陸の人々の当初の感情としては、ほんとうに
 人ではない、くらいの捉え方だったはずだ)


んで、極めつけとしては、
チャリティ・リサイタルの途中、
みすずとメガネ会計ババァの会話の中で「あいつ」という同郷人だけを指す
代名詞で鈴鹿さんのことを語ったこと。
このときには既に、鈴鹿さんは、北三陸の人々からしても「人」と捉えて
いたことになる
(余談だが、このへんの脚本家クドカンの筋書きがカンペキすぎるよね…)。


とかく、芸能人や有名歌手となると、市井の人々は、崇拝対象のように感じる
心理を持ちやすいわけだが、それは
必ずしも「憧れ」のように前向きな感情ということにはならない。
「同じ人間としての接し方」をできないということは言い換えると、
人間だと思わずになんでもしかねない、ということでもある。


芸能人がときどき、街でいきなり見ず知らずの人から写真を撮られたり
(しかも、ひとことの声掛けや感謝の言葉もなく!)することがあると思うのだが、
それも、一般人が芸能人を「人だと思っていない」からできる失礼な行為な
わけである。
時折、それに怒りをぶちまける芸能人もいるが、
多くの芸能人は有名税だと思って(印象や評判の管理もあるし…)黙ってにこやかに
しているのだろう。
その耐え忍び方は、個人的にはすごいと思う。


この「人だと思わない」という心理は実に恐ろしいもので、
たとえば戦争や民族紛争における、
残虐すぎてとても信じられないような行動などに関しても、
「人だと思わない」からできる、という話がある。


逆に言えば、指揮官は、兵に残虐な行為を実施させたいならば、
まず攻撃対象者を「人だと思わない」ように教育せよ、というのは
真理であろう。


すんごい方向に話が行ったけど(笑)
話をあまちゃんを戻す。


コミュニティで1人の人間として愛され、
さまざまな弾みもあって、結果的に東京で芸能人としてポジションを築いた
主人公アキという存在は、
北三陸の人々からすると、鈴鹿さんとはまったく逆で、
最初から最後まで「仲間」なのである。


このコミュニティに包まれる感覚が、
主人公アキが辛いことがあっても「地元に帰りたい」と思う
(=地元に帰れば、人間性を回復できるという適切な予測をする)
源泉になっているのだ。
ま、結果的に、ほんとに地元に帰っちゃうんだけど(笑)。


//////////////////////////


あまちゃんというドラマは、色々な切り口から語れることが
たくさんあるのだけれど、
こと「芸能人が芸能人を演じる」という点でもユニークである。


つまり、作中で、芸能人が演じる芸能人と、芸能人が演じる一般人が、
現実で芸能人と一般人が出会った際に起こると思われる心理を
表現することで、
「さて芸能人とはなんなのか」「アイドルとふつうの人の違いとは何か」
を視聴者に考えさせるわけである。


もっとも、実はもしかしたら、それはドラマを演じている、本物の芸能人たちも
そう思ったかもしれない。


昨今、ドラマの中のGMTだけではなくて、実際に現実世界でも
地元密着をうたうアイドルはたくさん出てきているわけだけれど、
それをマーケティング、もっと言ってしまうと「商法」という観点だけで
捉えるのはちょっと違う気がする。


ほんとうに、地元密着を目標に掲げ、その達成に向かうアイドルのほうが、
辛いときに帰れる場所を持っているという意味で、サバイバル度が高いのでは
ないだろうか?



というのも、
今日、テクノロジーの発達と、社会構造の変化によって、
我々人間は、祖先の時代からは想像もつかないほどにたくさんの人と
接点を持つことが可能になったという背景があって。


それは、たとえばテレビや報道を通じて、一方的に情報を受け取るだけの
存在(たとえば芸能人)についても、ある意味で接点を持っている、という
意味である。


だがしかし、結局のところ、
鈴鹿さんと北三陸の人々が起こしたような、
肌身の近さでの双方向のコミュニケーションなしでは
同じ人間としての信頼や共感を築くことはできず、
「人だと思わない」状態での、存在認識を脱することはできない。


そんなメディアや多様なツールによっていくらでも遠距離の情報が流れてくる
狂気的な状況のなかで、アイドル自身に、正気と人間性を保つために、
それこそダーウィン的な「自然選択」が起こっているのではないかと思えるのだ。


ま、とはいえ、地元愛をうたうあまちゃんで、
結果的に日本中に大ブレークしてしまった能年玲奈のように、
マスに遡及するスーパースターという存在がなくなったわけではない。


でも、そうであっても、
そういうこととは関係なく、
我々一般人としては、なるべく芸能人を「人だと思わない」という態度は
とってはいけないと思うんですよね。


いや結局、世界中で起きている諸問題にしても、「人だと思わない」の構造が
根源にはあって、
でもそれは人間が生物として自己や自己の血縁者の保存を優先する
ように進化してきた以上は根本的には仕方ないし、僕もそうなんだけど、
だけどまぁ意識できる範囲では、そういうことはなるべくマインドセットを
ちゃんと持ちたいなと。


そんなことを考えた、あまちゃん最終回まであと3日という朝。

The Last of Us 私論

数年ぶりにBLOGを書こうと思ったのは、
Twitterだとやっぱり短すぎて書けないこともあるな、と
思ったから。
今後、書きたいことがあったら、適当にBLOGに投下する予定。
特にテーマへのこだわりはなし! 備忘録+αっすね…。

で、そのちょっとまとまった量を書きたいテーマというので
第1回目はPS3のゲームソフト「The Last of Us」を取り上げる。
/////////////////////

タイトル:The Last of Us
ジャンル:サバイバルアクション
発売日:2013年6月20日
発売元:ソニー・コンピュータエンタテインメントジャパン.SCEJ
開発会社:Naughty Dog, Inc.

/////////////////////

結論から言うと、絶賛。
だけど、それだとTwitterでいいだろって話だし、
もうちょっとだけ。

あ、ちなみにネタバレを含むので
これからプレイしたい方はブラウザを閉じてください(笑)。

とりあえず、本作の設定自体は、
「謎の感染病(感染者は狂暴化して人を襲う)によって荒廃した世界」
という、SFホラー映画などではありがちで、
ゲームでも過去そういったタイトルはたくさんあったと思う。

ただ本作の凄味は、表現とプレイの力点を置いたところの
ユニーク性にある。
すなわち、世界の荒れ具合や恐怖感がメインではなく、
主人公たちの心身の苦しみと、狂気を孕んだ慈愛というべき感情を、
徹底して掘り下げて描き、
プレイヤーにゲームプレイを通じて、それらを追体験させるところにある。

正直僕はPS3購入が今年になってからという遅さなので(笑)
今世代コンシューマ機におけるトレンドのゲームをほとんど
プレイしていないこともあって、
他作品との比較で語ることは難しいのだが、
まぁでも別にそういうことを考えなくても、
単純に、深くのめり込んで、感情を揺さぶられて、共感してしまった。

本作では映画のように、エンドロールが流れるのだけれど
(昨今、完結ストーリーもののゲーム以外ではなかなかエンドロールも
 見なくなってきた気もする)
そこで表示される数多くの制作者たちの名前を見たときに、
「いい体験させてもらって…ありがとう」と思わずにはいられなかった。
ジョエルは最初は生き延びることがすべてで、
ふとした経緯から連れて歩くことになった少女エリーのことは、
お荷物どころか関わりたくない疫病神くらいに思っていた。

しかし、2人で力を合わせて襲いくる敵を打ち倒し、
困難を乗り越えるうちに、
ジョエルはエリーを守ることそのものに自分の生きる意味を
見出していく。
そこには、かつて守れなかった自分の愛娘の姿が重なっている。
一方エリーも、最初はまったくジョエルのことを信頼して
いなかったのだが、危機を乗り越える中で少しずつ心を開いていき、
恐怖と残虐さと死に溢れている狂った世界の中で、
彼を信じることで、親子の愛に近い感情を育んでいく。

結果、2人は世界を救うグレートジャーニーに突き進んでいくわけだが、
最後、あともう少しで世界が救えることになるところで、
ジョエルは葛藤のあげく、人類全体の未来よりも、エリーを守ることを
選んでしまうわけである。

さて、
このストーリー仕立てそのものは、ぶっちゃけ、
ゲームのシナリオライターがすべて握っているわけだ。
感染症の設定をちょろっといじるだけで、
別にエリーの命と引き換えることなくても、世界が救われました、
2人も楽しく暮らし、めでたしめでたし…
というエンディングにすることは、とっても簡単なのである。

だがあえてそれをしないということは、
エンディングを迎えたプレイヤーの心情に、
幸福感とはいえない感情を抱いてほしいということになる。
いや、これってなかなかできないよ。

無論、他の表現作品では、つまりたとえば映画や文学では、
とりわけ戦争を扱った作品などでは、
悲しい終わり方を迎えることは、
戦争の痛みを受け手に感じてもらうための常套手段として、
とてもよくあるパターンである。

しかし、ゲームでそれをすることは、個人的には、
正気ではなかなかやれないことだと思うのである。
なぜか。

まず、ゲームの場合は、受け手であるプレイヤーに
操作を要求し、ゲーム世界の探索を要求する。
したがって、映画などと違い、キャラクターの行動は
ある程度プレイヤーの意志が反映されるために、
そもそも制作者が意図した通りの感情の運びになるかどうかは
分からない、というよりかは、
インタラクティブさが本質にあるなら、感情は付随物という
ことになる。

ついで、その結果として、だいたいのゲームでは
10~30時間程度のプレイを要求する。
単純に映画1本を2時間としても、その10倍前後の
時間投入(さらにプレイするため、エネルギーは数倍かかるだろう)を
求めることになる。
さて、そこまで苦労してやった結果、
ハッピーエンドが待っていないのだとしたら、
ごく一般的に考えると、プレイヤーは怒りだしてもおかしくはない。

たとえば、多くのゲームには「ボス」と呼ばれる存在がいて、
だいたい悪の親玉だったりする(だからこそ強さが正当化される)以上、
それを倒すことは、善のカタルシスの解放が生じる。
だがそこで待っていた結果がバッドエンドでした、では、
プレイに伴う感情とストーリーに矛盾が起きて、プレイヤーは
不快になって然りなのである。

それをあえて、ハッピーエンド(必ずしもバッドエンドかは
分からない、というあたりはミソだと思うが)ではない
終わりを用意する
(しかもマルチエンディングゲームではなく、
 いわゆる一本道ゲームなので、他の終わり方はない)
というのは、
まさにプレイヤーの感情の動きを計算し尽くしていないと
大不評になるリスクを抱えているわけである。
そしてもちろん、人によって感情のポイントにはずいぶんと差が
あるわけで、その「計算し尽くし」が原理上可能なのかも怪しい。

だがそれをやってのけ、
結果的に世界中で絶賛の嵐を起こしているところが、
まぁ、率直に脱帽である。

ゲームのグラフィックや音の表現、
操作性やアクションの秀逸さも、そのストーリーにもとづく
感情展開を見事に支える高いクオリティを誇っており、
Naughty Dog社の「ゲーム制作力」の高さは
本作で極まったと言えるのではないだろうか。

/////////////////////
いくつかのネットレビューを読んでいて
「あまりに素晴らしすぎて続編を作ってほしくない」
という意見が散見され、なるほどなと思った。
ハリウッド映画などでは、興行収入が良くて人気が出た
映画は、すぐに続編制作の話が舞い込むものかと思うが、
しかしそれが単にアクションでヒットしたとか、俳優でヒットしたとか、
そういうことではなく、
世界観に基づくストーリーのもたらす共感レベルの高さが
魅力のコアにあった場合には、
ファンであればあるほど、続編を望みたくない、というケースはたまにあると思う
(か、あるいは、続編の質が低かったときにはブーイングの嵐に変わる)。

今日、コンシューマ・ゲームの開発には、
とりわけ重厚な作品ともなると、信じられない額の開発費用と
プロジェクトチームのパワーが要求される。
であるならば、完成した1作目ののゲームの設定やキャラクターを
再利用して、続編を作ろうとすることは、
商業的にはまったくもって当たり前である。
ゲームは、慈善事業ではないのだから、
投資から最大限の収益を引き出さなくては話にならない。

でも、どうやら、少なくとも本作については、
開発チームとして、追加DLC(ダウンロードコンテンツ)は確実に作るけれど
「続編は作れなくても問題ない」というメッセージを出している。
もちろん、商業面から、そのスタンスが変わるケースはあると思うし
そうなったからといって批判される筋合いはまったくない。
ただ少なくとも開発の後の時点で
「続編を作る気はない」と言い切ってしまえるというのは、
上述の、プレイヤーの感情展開を見通して構成する巧みさと併せて
考えると、実に頷ける話だ。

僕自身、プレイしていてあまり攻略サイトを頼りにしなかったので
途中では突破が難しい場面で死亡を繰り返し、
何度もコントローラを放り投げたのだが(笑)、
ついなんとなく、また次の日とかにプレイしてみて、
なんとかなんとか進めてきて、
エンディングまで辿りつけた。
そして、エンディングを見て、そこで切なさを覚え、そして余韻に浸る
ことができて、ああよかったなと思った。

もちろんゲームプレイの巧拙は人によって違うし、
死亡回数とか、感じる難易度とかも(まぁ難易度設定もできるわけだし)
違ってくる以上、
その経験は、他のプレイヤーと同一であることはないのだけれど。

ただ今日、ストーリーが一直線のゲームは「一本道ゲー」と時に
皮肉を込めて呼ばれることが多い中で、
あえてその一本道ゲーだからできるストーリーの重みと、
共感を高いレベルで、ゲームというメディアの特性を最大限に生かして
あまねくプレイヤーに体験させ、「語りたい」という思いを
引き起こさせた点で、
制作者たちに心からの賛辞を贈りたい。

/////////////////////
・外部リンク
公式サイト
『The Last of Us』の開発を振り返り「自分たちがプレーしたいゲームを完成させた」とNaughty Dog
【コラム】『The Last of Us』の続編を作るべきでない理由
『The Last of Us』クリア後の余談をいくつか【ネタバレあり】【ラスト・オブ・アス】
The Last of Us(ラスト・オブ・アス) レビュー (mk2 PlayStation)
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